2020年(R2)6月16日(火)2名

入生田駅~石垣山~小田原城~小田原駅のGPS軌跡(クリックで拡大)

今日歩いたコースは「美しい日本の歩きたくなるみち500選」の内、神奈川県の「太閤一夜城と長興山史跡巡りコース」と一部重なっています。

新型コロナウイルスの外出自粛がようやく解除されて5か月ぶりの電車に乗る。小田原駅で箱根登山線の箱根湯本行に乗車する。アジサイの季節にもかかわらず乗客はかなり少ない。昨年の台風19号による被災で箱根登山鉄道の箱根湯本から強羅間は現在不通になっている。復旧見通しは今年の7月下旬ごろのようだ。

箱根登山線入生田(いりうだ)駅

小田原駅から三つ目の入生田駅で降りる。小さな駅舎を出て右折すると50mほど先のガードをくぐる。直ぐに国道1号線が出てくるがこの信号を渡らず、右の地球博物館への階段を上る。

地球博物館への陸橋を渡る

陸橋に上ると眺めがよくなる。国道1号線の上を渡り歩いていくと、前方に見える丘陵がこれから登る石垣山(261m)のようだ。

地球博物館(新型コロナウイルスの影響で閉鎖中)を右手に見て進む

「神奈川県立生命の星・地球博物館」は、1995年3月に神奈川県立博物館の自然史部門が独立して開設された。地球誕生からの46億年の歴史を展示している博物館である。鉱物や古代生物や恐竜の化石、昆虫の標本や動物の剥製など約1万点が展示されている。今回はコロナ禍で閉鎖中だが機会があればゆっくりと見てみたいと思う。

早川でアユ釣りをする釣り人

陸橋が終わると早川沿いの道になる。ここを左折して数分歩き早川に架かる太閤橋を渡る。秀吉がこの橋を渡って一夜城に向かったのだろうか?太閤橋の名がついている。橋の下の岩にアオサギが羽を休めたたずんでいる。橋の上流と下流には数名のアユ釣りをする釣り人が見られた。

車道沿いにはたくさんのテイカカズラが咲いていた

ここからは車道を歩いていく。この車道が「広域農道小田原湯河原線」のようだ。車道の右側は緑濃い谷間のようになっていて、向こう側の斜面には運搬用のモノレールが付けられていた。車道沿いにはたくさんのテイカカズラが今が盛りと花をつけている。
テイカカズラ(定家葛)は、キョウチクトウ科、つる性の常緑低木。5~6月に乳白色(このあと淡黄色に変化する)でプロペラ状の花をつける。蔓の高さ1.5m~3m、他の木などに絡んで10mほどになる。葉は対生で3~5cm、有毒植物。花の名前は、平安時代の終わり頃、有名な歌人の藤原定家(小倉百人一首の選者)が後白河法皇の第三皇女式子内親王を慕っていた。だが皇女は病気のため49歳で亡くなった。あきらめきれない定家は皇女を慕って蔦葛となり皇女の墓石にまとわりついた。皇女の霊が蔦葛のまとわりつく苦しみを旅の僧に訴えるという謡曲(能で節をつけて語ること)「定家」に由来する。

コウゾの果実

コウゾ(楮)はクワ科の落葉低木で高さ2~5m、樹皮は褐色で葉は短柄をもって互生する。果実はキイチゴ状に付き6月頃に赤く熟す。甘味があって食べられるが雄しべが残りざらつき感がある。コウゾはミツマタと共に古くから和紙材料として知られている。コウゾの皮の繊維は麻に次いで長く繊維が絡み合う性質が強い。その紙は粘りが強く揉んでも破れない丈夫な紙となる。日当たりがよい場所で栽培することが容易なため和紙全体の9割を占める。

コマツナギ(駒繋ぎ)

コマツナギの仲間は世界に750種類以上あるという。このコマツナギ(駒繋ぎ)は草に見えるがマメ科の落葉低木で本州から四国、九州に分布する。日当たりのよい原野や道端に生える。草に似た木の太さは直径1.5㎝位、高さは60㎝~90㎝程になる。6月~9月にかけてハギに似た小さな淡い紅紫色の蝶形花を咲かせる。名前の由来は草でなく木なので茎が丈夫で馬をつなぎとめることができるからという説や、葉が馬の好物であり馬がこの木から離れなくなるためとする説がある。

斜面を利用した足柄茶の茶畑、機械による茶摘みをしていた

車道の左側の斜面に小さな茶畑が出てきた。ここは標高百数十メートルほど、ヴィーンと茶摘み機械の低い音が響く。農家の夫婦が茶摘みをしているのだ。段々畑での足柄茶の茶摘みだ。摘み取った茶畑の段は緑色から茶色に変わっている。ちなみに足柄茶は神奈川県西部の箱根、丹沢山麓一帯で栽培されているお茶である。今では小田原市、相模原市(旧津久井郡を含む)、南足柄市、秦野市、愛川町、山北町、松田町、湯河原町、真鶴町、開成町、中井町、清川村でお茶が生産されており総称して「足柄茶」と呼んでいる。通年では茶摘み作業は5月上旬からなので今頃は二番茶だろうか?足柄茶の名前は箱根の足柄山に由来している。足柄山は金時山から足柄峠にかけての山々の総称である。

車道がヘアピンカーブになる手前から側道に入る

太閤橋から約1.3km、標高差140mを30分ほどで歩く。車道で傾斜が緩やかなのでさほどきつくはない。車道のヘアピンカーブの手前で歩道がなくなり右側の側道を歩くようになる。階段を上るとあとは平坦な舗装された道になる。所々に石垣用石材が置かれ説明版と標識がある。車道の上に沿って側道は続きやがて農道と合流する。箱根ターンパイクにかかる姫ノ水橋を渡ると石垣山はもう近い。

スダジイ(スダ椎)の古木

車道の左側にスダジイの古木が出てくる。スダジイはブナ科の常緑広葉樹である。大きいものでは樹高15〜20m、直径1〜1.5mに達する高木となり、幹は黒褐色で成長すると樹皮に縦の切れ目が入ることが特徴である。この古木も縦に切れ目が入っている。一般的にはシイタケがなる木として、または食べられるドングリがなる木としても知られる。シイノキという名の木はなく関東地方で単にシイノキという場合はスダジイを指す。スダジイには漢字表記はなく強いて付けると「スダ椎」だろうか。このスダジイの古木から石垣山まで450mの標識がある。

石垣山一夜城の石垣

スダジイの古木から5~6分歩くと石垣山(2017年に続日本百名城に登録)の石垣が見えてきた。この道路をはさんだ反対側(東側)に一夜城の駐車場があり、駐車場の南側にフランス料理とスイーツの一夜城ヨロイヅカファームがある。

石垣山一夜城 石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。
秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。
この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されています。(小田原市ホームページより)

一夜城マップ(小田原観光協会 リトルトリップ小田原ホームページより引用)

石垣用石材(小田原市早川にあったものをこの地に移設した)

移設された石垣用石材 ここに置かれている石材は小田原市早川の「広域農道小田原湯河原線」建設に伴う発掘調査により発見され移設された。今日、入生田から太閤橋を経て一夜城まで歩いてきた道路がこの「広域農道小田原湯河原線」の一部になる。この道路の途中に「早川石丁場群関白沢支群」がありそこから移設されたもののようだ
「広域農道小田原湯河原線」は神奈川県小田原市と湯河原町を結ぶ山間丘陵部の農道で一部区間が供用されている。柑橘類の産地である沿道地域における農業生産の省力化、流通輸送の改善などを主目的としている。道路の構造は地方部の県道などと同様の規格で、一般車はもちろん大型車の通行も想定している。

石垣山一夜城入り口

車道からの石垣山一夜城入り口。立看板には「旧城道東登口」と書かれている。

石垣山の石垣を正面から見る

野面積み(のづらづみ)の石垣。自然の石をそのまま積み上げて石垣を築く方法である。加工しない自然石なので、これを積み上げると隙間が多くできる。このため「間詰石」と呼ばれる小石を詰めて隙間を埋める。雨水が石の隙間を通るので崩れにくく頑丈である。

石垣山一夜城の通路を塞ぐように崩れた石材

「東口城道」は崩れた石材が散乱している。地震により落ちてきたものだろう。

一夜城入り口から二ノ丸へのアプローチ

二ノ丸への散策路。左上に見えているのが二ノ丸(馬屋曲輪)である。左端は電気設備の小屋。通路はコンクリートと木材が交互に敷かれている。

石垣山一夜城の二ノ丸(馬屋曲輪)

馬屋曲輪は文字通り馬小屋がある曲輪のこと。この石垣の上に本丸(本城曲輪)があり、更にその西側に天守台がある。天守台には「史跡石垣山一夜城跡水準点 H=261.160m」と刻まれた金属板が埋め込まれていた。

石垣山一夜城・本丸物見台から小田原市街と小田原港を見る

本丸物見台から小田原市街地と小田原港が見えた。小田原城はどこにあるのかと思い探してみたが見つからなかった。写真を編集してようやく見つけた。石垣山から小田原城まで直線距離でおよそ3㎞、遠い距離ではないが街の中に溶け込んでいるので分かりにくい。

石垣山一夜城・本丸物見台から小田原城を見る

一夜城を築くのに述べ4万人、80日の期間がかかったといわれている。1日当たり500人もの大工事である。仮城が出来て秀吉は満を持して小田原城側の樹木の伐採を一夜のうちに行うよう命じた。そして翌朝、ほら貝や銅鑼を鳴らして喚声をあげさせた。小田原城までわずか3㎞程なので北条側はこの光景を見てさぞや肝を潰したことだろう。「秀吉は鬼神の生まれかわりか?」などと思ったかもしれない。こうして秀吉は戦わずして心理戦で勝利したのだ。

本丸物見台の前にベンチがあったのでここに座って昼の休憩をした。人影もまばらで周囲には誰もいない。景色を見ながら昼食をとる。

石垣山・二ノ丸展望台から箱根の山(左奥から駒ケ岳、神山。右奥は明神が岳。手前の山は塔ノ峰)

二ノ丸展望台からは駒ケ岳・神山・明神が岳など箱根の山が遠望できる。手前の山は塔ノ峰(566m)だ。塔ノ峰の下に見える街並みは左側が箱根湯本、右側が入生田である。

石垣山一夜城・二ノ丸展望台から入生田駅周辺を見下ろす

二ノ丸展望台からは眼下に入生田の街がまじかに見える。街並みの少し上部に二つの大きな建物が見える。これらは老人ホームのようだ。老人ホームの右側には紹太寺の屋根が見える。また右下には歩いてきた地球博物館の陸橋がカーブを描いている。

石垣山一夜城二ノ丸の北側にある井戸曲輪

石垣山には本城曲輪、馬屋曲輪、井戸曲輪、西曲輪、南曲輪など幾つもの曲輪(くるわ)がある。この曲輪とはなんだろうか。曲輪は江戸時代以降は「郭」や「廓」とも書かれた。城や砦の周囲にめぐらして築いた石垣や土塁・土石の囲いのことである。そういえばこの井戸曲輪も周囲に石垣をめぐらした区画となっている。淀殿が化粧に使ったということから淀殿の化粧井戸とも呼ばれる。井戸曲輪の石垣は関東大震災など多くの地震にも耐え石垣山一夜城の中でも当時の面影を最も良く残していると言われている。

ひと通り見てから一夜城前の駐車場に戻る。ヨロイヅカファームは休業していたが、花が咲く広い庭園で女性が庭の手入れをしていた。石垣山一夜城を後にして駐車場前の車道を小田原方面に歩く。少し歩くと展望がよくなり小田原市街地や小田原港が見えてくる。丹沢方面の展望もよさそうだが今日はもやっていて遠望は利かない。道なりにしばらく歩く。登ってくる車がかなり多い。前方に白くて大きな早川の魚籃大観音が見えてきた。右手に海蔵寺があるようで説明板がある。ここから下っていくと市街地に入る。新幹線と東海道本線の二つのガードをくぐり国道135号線の歩道橋を渡る。歩道橋から右手(南)の方に早川駅が見える。歩道橋から左(北)に進み早川橋を渡ってから二つ目の道を右折して住宅地に入る。あとはスマホのGPSを見ながら小田原城にたどり着いた。

小田原城址公園南口から入ったところ

小田原城(日本百名城)の概要 小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられています。1500年ごろに戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展しました。
 江戸時代を迎えると小田原城は徳川家康の支配するところとなり、その家臣大久保氏を城主として迎え、城の規模は三の丸以内に縮小されました。稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、近世城郭として生まれ変わりました。その後、大久保氏が再び城主となり、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきました。
 しかし、小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました。
 現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年(1971)には常盤木門、平成9年(1997)には銅門、平成21年(2009)には馬出門が復元されました。さらに小田原市では、貴重な文化的遺産である小田原城跡をより一層親しんでいただくとともに、長く後世に伝えていくことを目的として、本格的な史跡整備に取り組んでいます。 (小田原城ホームページより

小田原城址公園の銅門(あかがねもん)

小田原城址公園の南口から入ると右側の柵沿いにアジサイが咲き、左側の堀は大きな蓮の葉で一面が覆いつくされていた。先に進むと右手に立派な銅門が見える。赤い橋の下をくぐると花しょうぶが咲き始めていた。

小田原城址公園の菖蒲園

小田原城東堀にある花菖蒲園。花期は5月下旬〜6月中旬ごろで10,000株が咲く。花菖蒲園を一回りしてから赤い常盤木橋を渡り天守閣に向かう。

菖蒲園と天守閣をつなぐ赤い常盤木橋を渡る

花菖蒲と常盤木橋。石垣と赤い橋と満開のハナショウブ。

小田原城天守閣

小田原城天守閣のある広い本丸の一角にサル園があり、おりの中で多くのサルが休んだり駆け回っていた。また広場の外れに茶店があったので入ってみた。思ったより客の少ない、それでも外で食べるためか次々とアイスクリームを持ち帰る人がいて、そんな茶店でてんこ盛りのかき氷を食べ、しばらく休憩してから帰途についた。

小田原城の天守は1960年(昭和35年)5月に市制20周年記念事業として、総工費8000万円をかけて復興された。江戸時代に造られた雛型や引き図(宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図)を参考に外観復元され内部は歴史資料の展示施設となっている。天守の高さは27.2m、天守台の石垣高さは11.5m、総高38.7m。

入生田駅~石垣山~小田原城~小田原駅のコース断面図

コースタイム 歩行2時間26分(石垣山・小田原城散策を除く) その他、石垣山一夜城1時間16分(内休憩20分)、小田原城1時間(内休憩20分) 距離10.4㎞ 累積の登り401m、下り-444m 箱根登山線入生田(いりうだ)駅9:48→9:58太閤橋→10:35側道→11:08石垣山一夜城12:24→12:56海蔵寺前→13:31小田原城14:32→14:41小田原駅

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