2024年(R6)2月28日(水)4名
旧山の会のメンバーから曾我丘陵ハイキングのお知らせがあった。おおいゆめの里にも行くというので同行させていただく。旧知の3人とともに御殿場線上大井駅から歩き始める。駅前通りの信号を渡り右方向(国府津方向)に行く。次の角を左折する。「いこいの村 3.2㎞」の標識がある。ここから、おおいゆめの里まで、ゆっくり歩いて1時間ほどである。(参考:富士見塚ハイキングコース)
標識は完全でないので要所では確認しながら歩いていく。途中から車道を離れて農道に入っていく。早春の野草ホトケノザが一面に生えており、のどかな里山の風景も広がる。
農道入口から風景を楽しみながら15分ほど歩くと一面ピンク色の河津桜が見えてくる。
おおいゆめの里の河津桜は170本ほどあり植樹(2006年)から18年になる。10数年前に何回か訪れたことがある。そのときは植樹から5~6年でこんなに見事に咲いていなかった。河津桜の寿命は60年ともいわれている。これからが樹木としての青年期を迎えて益々見事な花を咲かせるだろう。ゆめの里は盆地状になっていて下に降りていけるようになっている。満開の河津桜越しに富士山や箱根連山の絶好の展望地でもある。またゆめの里入口付近にはトイレが完備されていた。
おおいゆめの里
おおいゆめの里は、山田から柳にかけての土地約19ヘクタールを対象地域として、荒廃しつつある山林を身近な里山へと復元させる活動を行う場所です。間伐などを行い木々や土壌を適切な状態に保ち、ボランティア団体と協力しながら下草刈りや植樹などを継続的に行っていくことで山林の管理や生物、植物などの生息場所を保全していきます。 また、農業体験施設四季の里を拠点として、おおい自然園と連携した事業を展開し、当地を活用した自然観察会や学習機会の提供などを行います。さらには、相和地域の農地で農産物収穫体験やさまざまなイベントを実施することで都市地域や近隣からの交流人口の増加や地域農業の活性化を目指します。(大井町HPより)
大井町農業体験施設 四季の里
農業体験施設四季の里は、豊かな自然の中で農業やものづくりを体験する拠点施設として、利用者や都市住民との交流の場となっています。建物は、神奈川県産木材のぬくもりを感じられる体験室と自然エネルギーを利用したОМソーラーシステムが特徴です。また、施設内にある直売所では、採れたての地元新鮮野菜や特産品を購入することができます。(大井町HPより)
ゆめの里を出て直ぐ近くの四季の里に入ると地産の野菜や柑橘類が売られていた。大きめのミカン5個で200円を購入する。かって「おおいゆめの里」の東側に「いこいの村あしがら」があった。いこいの村あしがらは神奈川県の勤労者福祉施設で足柄の温泉宿として運営されていた。コロナ禍前は年間2万人以上の宿泊者があったが新型コロナの影響により宿泊者数が90%以上も激減し赤字が続く状況となった。そのため現在は民間企業に譲渡されウェイブプールや周辺設備の整備が進められている。
四季の里を出て右方向(北東)へ行き、十字路を右折する。ラ・レイエス湘南(旧いこいの村あしがら)の正面入口前を通り道なりに進むと曽我丘陵の稜線に出る。「六本松跡 曽我丘陵」の標識があり、ここを右折する。道は緩やかに登り展望も開けていく。右下にサーフインウエブプールが見えてくる。少し進むと右手に道路拡幅工事現場(エバラ食品工業中央研究所に通じる)が出てくる。ここは通行止の脇から稜線を直進する。このあたりが標高219mで浅間山(317m)まで100mほどの登りである。更に進むと右手に赤田配水池の施設を見て過ぎる。左側が開けてきて市街地が眼下に見える。里山の風景も広がる。
浅間山には電波塔があり山名表示はない。左手方向への分岐は「菅原神社」方面で中井町古怒田(こぬた)集落に至る。六本松跡へは「小田原 梅の里」方向へ進む。浅間山から不動山までは30分ほどで起伏はあまりない。
曽我丘陵の由来。小田原市の北部に連なる浅間山(317m)、不動山(328m)、高山(246m)を総称して曽我山または曽我丘陵と呼ばれる。曽我の名称はこの付近(小田原周辺)に相模国曽我荘があったことに由来する。曽我荘は鎌倉時代の幕府御家人曽我氏の支配地であった。曽我一族といえば1193年6月28日(建久4年5月28日)源頼朝が行った富士の巻狩り(中世の大規模な狩猟)の際に曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を富士野(静岡県富士宮市)にて討った事件。いわゆる「曾我兄弟の仇(あだ)討ち」が有名である。御殿場線の下曽我駅近くには曽我兄弟の菩提寺である城前寺(じょうぜんじ)がある。
不動山山頂入口の目立たない標識がある。山頂までは急な直登で5分ほどかかる。山頂は周囲が樹木に覆われていて眺望はない。登って来た道と反対側を下ると6~7分で元の道に合流する。更に下ると舗装された林道に出る。林道を更に下っていく。左手方向や前方に海が見えてくる。
二又の分岐が出てくるので左手方向に行く。分岐から200mほど歩くと右側に開けた台地状の場所がある。ここを上がり奥に進むと向こう側にも道路があり木製テーブルと切り株の椅子が置かれていた。(こちらの道路からはベンチ休憩地が見えないので注意)。箱根と富士山を見ながら休憩できる。元に戻り更に林道を下ると六本松跡に出る。
六本松跡(標高約190m)は曽我丘陵の不動山(328m)と高山(246m)の鞍部にある峠である。昔は曽我山を山彦山といった。そこでこの峠を山彦山の峠道と呼んだ。このあたりには六本の松の木があったようだ。また鎌倉道、大山道、箱根道が交わる重要な峠道でもあった。1185年には源頼朝が源義経追討のため軍勢を率い京にのぼる際に通ったとされている。六本松跡には記念碑が二つある。
左側の六本松跡碑は旧字で「六本枀趾」と記してある。1918年(大正7年)孤山人(尾崎八束 宗我神社神官)筆による。(尾崎八束は大正・昭和時代の芥川賞作家 尾崎一雄の父である。)
右側は芭蕉の句碑で東海道を下るためにこの峠を歩いたとみられる。1687年(貞享4年)夏「ほととぎす鳴く鳴く飛ぶぞ忙はし」と詠んだ。(ほととぎすが鳴いては飛び鳴いては飛びしてせわしない。季節の移り変わりのあわただしさを感じる)
六本松跡には高山方向に仮設トイレが置かれている。曽我梅林、下曽我方面へは陸橋をくぐって下っていく。
六本松跡
古代千代台地は師長国の府中で、この地方の文化の中心地であったので、西からの旅人は皆ここに寄って、この道を、目指す阪東や奥羽へと向かったと推定(弓削道鏡等)される。
その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、上洛や富士の巻狩などにこの道を通り、いまも鎌倉山、将軍山また豪族中村氏がお出迎えした所を「大迎え」などの地名が残っている。また、この地の豪族が鎌倉にはせ参じた鎌倉街道でもあり、阪東三十三番観音の五番勝福寺から六番長谷寺に詣る巡礼道でもある。
戦国乱世のころ、京の聖護院准后道興は「答えする 人こそなけれ 足曳の 山彦山は荒らし吹くなり」。を詠み、降って元禄のころ 松尾芭蕉は「ほととぎす 鳴き鳴き飛ぶぞ いそがわし」。門人の白雄は「人の知る 曽我中村や 青嵐」 その後 蕪村も「雨ほろほろ曽我中村の田植かな」と詠んだ。
この、六本松の地名となった最後の松の大樹は、明治の終わり頃惜しくも長い一生を終わっている。(現地案内板より引用)
二宮尊徳遺髪塚
尊徳二宮金次郎の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛であった。当時、川久保家は太兵衛の才覚で繁栄していたが、兄太兵衛の代になると、分をこえた生活と病災にみまわれて家運も傾きはじめた。
天保一一(一八四〇)年、尊徳は川久保家の再興をはかることになり、市太郎、民次郎、常次郎の三人の子息に無利息の報徳金(ほうとくきん)を貸与し、復興の指導を行った。その結果もっともすぐれた成果を上げた民次郎が川久保家をつぐことになった。この民次郎は下野国の桜町(栃木県二宮町)仕法時代から、永らく尊徳に従者として仕えており、尊徳の死去にあたり、その遺髪を得て曽我へ帰った。この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の與三郎が昭和十三年にその遺志を継いで建てたものである。小田原市教育委員会 (現地案内板より引用)大山道(おおやまみち)
大山は神奈川県の最高峰のひとつで、雨降山(あふりやま)とも呼ばれた。江戸時代にはその中腹の不動寺の鉄不動が広く尊崇され、明治以降は阿夫利神社が信仰されている。
相模平野の農村では雨乞いなど農業の守護が祈られ、漁村では船の上からも遥拝される山なので海上安全の目的で信仰された。江戸から講を作って参拝団がくるのは、春秋のレクリエーションの目的を兼ねていた。
その大山への参詣道が「大山みち」で、相模平野の各地から多くのルートがあった。曽我の大山みちは、千代-曽我原-殿沢川-曽我別所-六本松峠-田中のルートである。小田原市教育委員会 (現地案内板より引用)
コースタイム (GPSログ記録)
歩行3時間45分(別途休憩他2時間25分)距離10.6km 累積の登り471m、下り-483m
御殿場線上大井駅9:14→10:08おおいゆめの里(散策18分)10:26→10:27四季の里(野菜ミカン購入12分)10:39→11:19浅間山→11:53不動山→12:20ベンチ休憩地(休憩42分)13:02→13:07六本松跡(休憩16分)13:22→14:06梅まつり会場(打上げ57分)15:03→15:24下曽我駅
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