2024年(R6)5月18日(土)2名

神武寺駅~鷹取山登山口(神武寺表参道)~神武寺~鷹取山~追浜駅のGPS軌跡

神武寺駅~鷹取山登山口(神武寺表参道)~神武寺~鷹取山~追浜駅のGPS軌跡

三浦半島の山といえば大楠山に鷹取山である。鷹取山は若いころに一度来たことがある。手元に残っている写真では岩壁にハーケンの穴がほとんど見られない。低い岩場をザイルを使わずにヘルメットをかぶって登っている人が数名写っている。だから、この頃から岩登りがされていたようだ。もう半世紀以上も前のことだから、どこをどう歩いたのかも全く記憶にない。
鷹取山の標高は139mである。自分の住んでいる所より低いという人も多いのではないだろうか?そんな鷹取山を夏になる前に歩いてみたいと思った。

京急逗子線神武寺(じんむじ)駅

京急逗子線神武寺(じんむじ)駅

神武寺駅の改札口を出ると小さな駅前広場がある。左側に線路があり右手に行くと県道(205号:金沢逗子線)に出る。県道を左折して進む。左側に水路があり鯉やカモなどが泳いでいた。200mほど歩き交番前の信号を渡り直進する。道なりに郵便局前を通って8分ほど歩くと神武寺トンネルが出てくる。神武寺トンネルは旧トンネルが狭いため拡幅工事を行い2018年(平成30年)に開通した。トンネルの幅員は12m(片側の歩道2m、車道3m)総延長127mである。

神武寺トンネル

神武寺トンネル

トンネルを抜けて2分ほど歩くと左側に鷹取山登山口がある。ここは神武寺の表参道である。階段脇に「天台宗 神武寺」の大きな石柱が立っており石段を登っていく。

神武寺入口・鷹取山登山口

神武寺入口・鷹取山登山口

石段を登りきると山道になり木々の緑が広がる。

山道の風景

山道の風景

10分ほど歩くと左側に「こんぴらやぐら」の石柱がある。ここを入っていくと山の斜面に幾つかの「やぐら」が掘られている。「やぐら」とは昔の方言であり岩をくり抜いた穴のことをいった。山に囲まれ岩が柔らかく横穴を掘り易かったために造られた。中世の横穴式墳墓ともいえる。現在の鎌倉市とその周辺地域では鎌倉時代中期から室町時代前半にかけて「やぐら」が造られた。

こんぴら山やぐら群

こんぴら山やぐら群

逗子市指定重要文化財(史跡)
こんぴら山やぐら群 指定年月日 昭和四十五年五月一日
こんぴら山やぐら群は、山腹の南東側斜面に、一辺が1メートル程度の小形のやぐら二十穴余りが並んでおり、鎌倉時代後期から室町時代にかけて作られたと思われる典型的な「山のやぐら」です。第二次世界大戦中、こんぴら山が軍用地として接収されることになり、その際にやぐら内部にあった石塔や骨を掘り出して寺の方に移動させたということです。そのため、現在は内部に何も残っておらず、また学術的な発掘調査記録もありません。
やぐら内部からは、複数の骨容器や土器、写経石などが出土しました。その中に、中国から輸入された緑釉(りょくゆう)の長頸瓶(ちょうけいへい)があります(写真)。高さ十八センチメートルほどの小型の製品で、肩部に獣面(じゅうめん)を表した一対の耳(把手 とって)を着け、全体に緑釉を施したあと、胴部に鉄釉で渦巻き文様を描いています。鎌倉市内の遺跡からは中国製の輸入陶磁器が多く出土しますが、緑釉の製品は比較的少なく、特にこの器形は珍しいものです。元の時代に中国北方地区付近で作られたものと考えられます。平成三十年三月 逗子市教育委員会

元に戻って進むと直ぐに池子参道との分岐に出る。現在「池子参道」は落石の恐れがあり通行止めになっている。分岐の右手にトイレがあり前方に神武寺の総門が見える。簡素な造りの神武寺総門をくぐる。この神武寺総門は元は東逗子駅付近の踏切を渡った所にあったという。第二次世界大戦中に表参道の登り口に移設後、1975年(昭和50年)に現在地に移設された。

神武寺総門(入口の門、外構えの門)

神武寺総門(入口の門、外構えの門)

左手に神武寺本堂があるが立入り禁止になっている。神武寺縁起によれば神亀元年(724年)聖武天皇の命で行基が創建し平安時代に円仁が再興したというが定かでない。薬師堂への階段を上がると道は二手に分かれている。直進すると急な階段で楼門から薬師堂へ行ける。左の階段は緩やかに薬師堂へ行ける。

神武寺楼門(2階建ての門)

神武寺楼門(2階建ての門)

楼門右の仁王像(金剛力士像)

楼門右の仁王像(金剛力士像)

楼門左の仁王像(金剛力士像)

楼門左の仁王像(金剛力士像)

楼門(内側)

楼門(内側)

神武寺の鐘楼(鐘つき堂)

神武寺の鐘楼(鐘つき堂)

神武寺の薬師堂(薬師如来の仏堂)

神武寺の薬師堂(薬師如来の仏堂)

神武寺・薬師堂
薬師堂は「医王山・神武寺」の名の通り、薬師信仰の中心です。現在は銅葺屋根ですが、昔の茅葺屋根の葺き替え工事の「棟札」には慶長三年(一五九八)の年号が残されており、薬師堂は逗子では古くからの建築物の一つです。(県重要文化財)
「お薬師のお力によって、衆生の病苦が救われる」と信じられた薬師信仰が、極楽浄土を求める阿弥陀信仰と共に盛んでした。吾妻鏡にも源頼朝や政子が篤く信仰したことが記されています。
薬師堂の薬師三尊像(市重要文化財)は秘仏で、本来は三十三年に一度ご開帳されますが、年の暮れ十二月十三日には毎年、すす払いがあり、ご本尊拝観のチャンスがあります。
薬師堂脇の鷹取山ハイキング道の左手には「女人禁制」の石柱があり、修験者(しゅげんじゃ 山にこもって心身を鍛える行者)がこの山で修行したことが分かります。
また、薬師堂の近くには樹齢四百年といわれるホルトの木(通称「なんじゃもんじゃ」の木、かながわの名木百選)や菩提樹などの大木があります。逗子市・自然の回廊プロジェクト

神武寺のなんじゃもんじゃ(ホルトノキ)

神武寺のなんじゃもんじゃ(ホルトノキ)

境内の脇に「なんじゃもんじゃ」の木がある。見上げると梢が空を覆いつくすようで見応えがある。

かながわの名木100選 昭和59年12月選定
神武寺のなんじゃもんじゃ 和名;ホルトノキ(ホルトノキ科)
ポルトガルからの移植樹とも伝えられているが、もともと日本に自生する樹木であって、これは分布の北限である。樹種がわからなかったので「なんじゃもんじゃ」と呼ばれて親しまれてきた。樹高 20メートル 胸高周囲  樹齢 約400年(推定)
ホルトノキは、千葉県以西の本州の太平洋岸から九州の照葉林帯に分布する常緑高木である。樹高20メートル、胸高周囲4メートル、樹齢約600年に達するものもあると言われている。

なんじゃもんじゃ(ホルトノキ)

なんじゃもんじゃ(ホルトノキ)

岩交じりの登山道

岩交じりの登山道

鷹取山へは薬師堂の左手から登っていく。ここから本格的な山道になる。山頂まであちこち眺めながらゆっくり歩いて50分ほどである。神武寺山(134m)からは岩交じりの緩やかな山道となる。滑りやすく落差が大きいところもある。無理をせず落差の小さいところを探す。山頂までに数か所展望が開ける。富士山が見える場所も一か所ある。鷹取山の地質は主に凝灰岩(ぎょうかいがん)で出来ている。岩質は柔らかくもろいため登山道の岩もすり減って滑りやすい。山頂手前に斜面を横断(トラバース)する長さ20mほどの鎖場がある。

鎖場の取り付き(入口)

鎖場の取り付き(入口)

鷹取山山頂の岩場でのロッククライミング練習

鷹取山山頂の岩場でのロッククライミング練習

鎖場を過ぎると間もなく開けた鷹取山(標高139m)の山頂に出る。目の前の展望台のある岩壁(親不知)では数人の男女がロッククライミングのトレーニングを行っていた。
鷹取山は三浦丘陵(最高峰は大楠山241m)の一部をなす標高139mの丘陵である。室町時代の武将で江戸城を築城した太田道灌が鷹狩をしたことで鷹取山と名付けられた里山であった。
その鷹取山がなぜロッククライミングの練習場になったのか?それは、明治になってから山頂付近の凝灰岩を石材用として切り出した結果、切り立った岩壁が残されたためである。鷹取石として盛んに切り出しが行われた頃、1923年(大正12年)9月に関東大震災が発生し各地に甚大な被害が発生する。そしてこの鷹取石で造った多くの塀などが崩れてしまった。それは軟らかくて加工し易い反面、もろくて崩れやすかったからであった。そのため石材には適さないとされコンクリートの普及もあり次第に使われなくなった。昭和初期には採石は終了した。
戦後の混乱がようやく落ち着きかけた1956年5月(昭和31年)にネパールのマナスル(8163m:世界の8000m級14座中8番目)が日本隊(日本山岳会第三次マナスル登山隊)によって初登頂され日本に一大登山ブームが起こる。
そしてそれに伴い鷹取山の岩壁をロッククライミングの練習に使う若者が増えた。ただ、岩壁を形成する凝灰岩(ぎょうかいがん)の岩質は柔らかくもろい性質がありハーケンが抜けて転落する事故が多発した。そのため横須賀市はハーケンを打ち込みカラビナを引っ掛けてロープでサポートするタイプのロッククライミングを禁止する。1983年以降はロッククライミングを行う場合は事前に鷹取山安全登山協議会に登録し許可された場合のみに行えるようになった。
そういえば山友のTさんは山岳会の仲間とここで岩登りのトレーニングをしていたようだ。そのTさんが丹沢でなくなってから6年以上も経つ。時の経つのは早いものだ。そう思ってこの岩壁を見ると感慨深いものがある。
広場には木陰がないので岩陰で日差しを避けて昼食をとる。鷹取山に来る人は若い人が多く中高年は少なかった。なぜだろうか?と考えたら今日は土曜日だった。またロッククライミングの人とハイキングの人の割合が半々ぐらいの感じだった。

鷹取山山頂の岩場(親不知)でのロッククライミング練習

鷹取山山頂の岩場(親不知)でのロッククライミング練習

鷹取山山頂の岩場でロッククライミングのサポートをする人

鷹取山山頂の岩場でロッククライミングのサポートをする人

鷹取山山頂の岩場周辺

鷹取山山頂の岩場周辺

鷹取山山頂の岩場(親不知)

鷹取山山頂の岩場(親不知)

鷹取山山頂の岩場、親不知(上部に展望台)と広場

鷹取山山頂の岩場、親不知(上部に展望台)と広場

岩壁の裏手から展望台への階段を上る。展望台からは房総半島、江ノ島、横須賀市街地、大楠山、二子山、富士山、丹沢など360度の眺望が得られる。

展望台からの霞んだ富士山

展望台からの霞んだ富士山

展望台からの眺め(左の二つの山は二子山)

展望台からの眺め(左の二つの山は二子山)

展望台からの眺め(中央に横浜横須賀道路と上方は武山方面)

展望台からの眺め(中央に横浜横須賀道路と上方は武山方面)

展望台からの眺め(上方は横須賀港方面、高層ビルはザ・タワー横須賀中央)

展望台からの眺め(上方は横須賀港方面、高層ビルはザ・タワー横須賀中央)

展望台からの眺め(真下に山頂の広場、中央に子不知、その上方に後浅間の岩壁)

展望台からの眺め(真下に山頂の広場、中央に子不知、その上方に後浅間の岩壁)

展望台からの眺め(鷹取小学校と湘南鷹取住宅街)

展望台からの眺め(鷹取小学校と湘南鷹取住宅街)

鷹取山山頂一帯が鷹取山公園で一段下に管理人詰所、トイレ、東屋のある広場がある。

鷹取山公園管理人詰所とトイレ(この広場の左側に東屋がある)

鷹取山公園管理人詰所とトイレ(この広場の左側に東屋がある)

トイレの右手に湘南鷹取の住宅地へ下る道がある。ここを行った左側に仏像壁画群のある岩壁がある。

鷹取山公園トイレ右側から湘南鷹取に下る道路(壁画群はここを行った左側にある)

鷹取山公園トイレ右側から湘南鷹取に下る道路(壁画群はここを行った左側にある)

鷹取山公園の岩場の間を通って追浜駅方面へ向かう

鷹取山公園の岩場の間を通って追浜駅方面へ向かう

磨崖仏は追浜方面へ行く途中にある。追浜方面の岩壁の標識に従い進む。10分ほど登り下りして歩くと磨崖仏が現れる。この弥勒菩薩の表情は中空を眺めどこか微笑んでいるように見える。遠い未来、慈しみにより生あるものすべてを救うという弥勒菩薩。果たしてこの菩薩は男なのか?女なのか?調べてみると菩薩には男も女もないそうだ。菩薩は男女を超越した存在なのだそうだ。東南アジア系の若い女性二人がこの菩薩像の前で記念撮影をしていた。何かここの雰囲気にマッチしているね!

磨崖仏(岩壁に彫られた石仏)

磨崖仏(岩壁に彫られた石仏)

市制施行七十周年期記念 横須賀風物百選 鷹取山と磨崖仏
鷹取の地名の由来については、太田道灌が鷹狩りをしたことによるとか、鷹が多くいて鷹をとったことによるとか、いろいろな言い伝えがあります。また、高いところを示す語に「タカットー」の原意があり、これが「タカトリ」となり、鷹取の文字をあてたものと考えられています。
この山の地質は、市内のいたるところで見られる第三期層凝灰岩です。柔らかで加工しやすいため、家屋の基礎や塀、護岸などの建築土木用材として鷹取石の名称で広く愛用されてきました。
切り立つ岩の様相は、明治から昭和の初期にかけて、石材を採取したために生じたものです。この山の容姿が群馬県の妙義山に似ていることから、「湘南妙義」の別称で呼ばれるようになりました。また、岩肌にある無数の小さな穴は、登山練習のために打ち込まれたハーケンの跡です。
磨崖仏の弥勒菩薩(みろくぼさつ)尊像は、逗子市に在住の川口 満氏の依頼により、本市在住の彫刻家 藤島 茂氏が昭和四十年ごろに制作したものです。(岩質がもろいので、登山練習は危険です。)

磨崖仏から10分ほど歩くと水道施設の前を通り湘南鷹取の住宅地に降り立った。ここからは湘南鷹取のメイン道路を1.8㎞ほど歩くと追浜(おっぱま)駅に行ける。センターラインがオレンジ色のメイン道路を20分ほど歩く。京急線の踏切を渡り横須賀街道(16号)に出る。右折して少し歩くと追浜駅だ。

神武寺駅~神武寺~鷹取山~追浜駅のコース断面図

神武寺駅~神武寺~鷹取山~追浜駅のコース断面図

コースタイム
歩行2時間20分(別途休憩1時間25分)歩行距離6.4km 累積の登り下り±340m
神武寺駅9:52(🥾22分)➡10:14鷹取山登山口(🥾16分)➡10:30こんぴら山やぐら群10:40(🥾10分)➡10:50神武寺薬師堂11:00(🥾45分)➡11:45鷹取山12:50(休憩)(🥾10分)➡13:00磨崖仏➡13:10下山口(🥾26分)➡追浜駅13:36着

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